最近,世間を賑わせているお二人。聞こえない作曲家佐村河内守さん,世紀の大発見をした学者小保方さん。そして,とばっちり(?)で著作がゴーストライターの書いたものだとばらされたホリエモン。しかし,みんなそれぞれにウソをついていた(ということになっている)が世間の反応は様々。
一連の騒動を眺めると,著作物には大きく2種類の価値があるような気がしてくる。「表現されるもの」と「表現の仕方」だ。どちらに重きがおかれるかは著作物によりけり。
ホリエモンの本では「表現されるもの」であるホリエモンの考え方が重要なのであり,(極端にいえば)それがどのような趣の文章で表現されるかはどうでもいい。したがって「表現されるもの」の出所であるホリエモンが文字を並べていなくても(文章を作っていなくても),ホリエモンは著者と名乗って問題ないのだろう。
では,学者である小保方さんの場合はどうだろうか。今回の騒動では「表現されるもの」である研究結果も, 論文の「表現の仕方」にも問題があるらしい。だが,もし,「表現されるもの」である発見の中身が正しければ(他の研究所で実験が再現されていれば),「表現の仕方」の不備である写真の流用等は"些細なミス"で済んだだろうし,学位論文のコピペも不問だろう。(むしろ,研究の本質とは関係ない部分は効率的に処理した新時代の研究者だ,と好意的に扱われたかもしれない。)
最後に佐村河内守さん。このケースは難しい。シンプルにいうなら,彼がホリエモンと同じような仕事をしたかどうかが問題なんだろう。「表現の仕方」である楽譜を彼が書いたかどうかは,おそらく問題ではない。佐村河内守さんが鼻歌等で「表現されるもの」を新垣さんに伝え,新垣さんが譜面に起こしていたなら多分世間はここまで騒がない。では,壮大かつ人間の悲しみを表す曲を,というような言葉でのオーダーだったらどうだろうか。許してくれないだろう。。
芸術は「表現の仕方」により価値を見出される場合がある。たとえば,夏目漱石の「こころ」は,人間のさみしさを表したものだと思うが,人間のさみしさ自体は誰でも知っていることで,それを巧に表現したことに価値があるのだ。
価値の境界線は,表現の主体と対象境界線と一致するとは限らないということ?
※もはや,真実が何かわからない状況なので新事実がでたらお知らせを。
一連の騒動を眺めると,著作物には大きく2種類の価値があるような気がしてくる。「表現されるもの」と「表現の仕方」だ。どちらに重きがおかれるかは著作物によりけり。
ホリエモンの本では「表現されるもの」であるホリエモンの考え方が重要なのであり,(極端にいえば)それがどのような趣の文章で表現されるかはどうでもいい。したがって「表現されるもの」の出所であるホリエモンが文字を並べていなくても(文章を作っていなくても),ホリエモンは著者と名乗って問題ないのだろう。
では,学者である小保方さんの場合はどうだろうか。今回の騒動では「表現されるもの」である研究結果も, 論文の「表現の仕方」にも問題があるらしい。だが,もし,「表現されるもの」である発見の中身が正しければ(他の研究所で実験が再現されていれば),「表現の仕方」の不備である写真の流用等は"些細なミス"で済んだだろうし,学位論文のコピペも不問だろう。(むしろ,研究の本質とは関係ない部分は効率的に処理した新時代の研究者だ,と好意的に扱われたかもしれない。)
最後に佐村河内守さん。このケースは難しい。シンプルにいうなら,彼がホリエモンと同じような仕事をしたかどうかが問題なんだろう。「表現の仕方」である楽譜を彼が書いたかどうかは,おそらく問題ではない。佐村河内守さんが鼻歌等で「表現されるもの」を新垣さんに伝え,新垣さんが譜面に起こしていたなら多分世間はここまで騒がない。では,壮大かつ人間の悲しみを表す曲を,というような言葉でのオーダーだったらどうだろうか。許してくれないだろう。。
芸術は「表現の仕方」により価値を見出される場合がある。たとえば,夏目漱石の「こころ」は,人間のさみしさを表したものだと思うが,人間のさみしさ自体は誰でも知っていることで,それを巧に表現したことに価値があるのだ。
価値の境界線は,表現の主体と対象境界線と一致するとは限らないということ?
※もはや,真実が何かわからない状況なので新事実がでたらお知らせを。